歴史 |
||||||||||||||||||||||
|
歴史の雑学 |
|||||||||||||||||||||
| TOP>歴史の雑学 | ||||||||||||||||||||||
歴史の雑学 ここでは歴史に関する雑学を紹介します。 歴史って奥深いものがありますよね。 いままでにいろんな歴史があったからこそ現在があるわけです。 そう考えると歴史に興味がでてきませんか? それでは歴史に関する雑学です。 京都の歴史の観光名所として有名な金閣寺と銀閣寺。 金閣寺には金箔が貼られていて、訪れる人の目を奪っている。 一方の銀閣寺、正式名は慈照寺。銀閣寺を建てたのは室町幕府 8代将軍、足利義政で最初から塗る気はなかったのである。 しかも義政は銀閣寺の完成を見る3ヶ月前に他界したのだ。 それは中国では歴史上、日本のことを「ジッポン」といっていたことからきている。 東方見聞録を書いたマルコ・ポーロは「ジッポン」を「ジパング」と聞き取り記録 したというのだ。この「ジパング」から「ジャパン」と呼ばれるようになったのだ。 それは、「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらずといえり」に始まる 「学問のすすめ」の著者である福沢諭吉である。 「学問のすすめ」は明治5年(1872)から9年にかけて、初編から17編まで公刊され、 偽版も含めれば80万冊あまりも売れたという。 福沢諭吉は、幕末から明治維新にかけて蘭学と英文を学び、幕府の著書調べどころに 勤務するとともに私塾を開いた。これが慶応大学の前身である。 「学問のすすめ」の他にも「西洋事情」、「文明之概略」などの歴史上の著書がある。 昭和20年(1945)8月15日は、歴史上、太平洋戦争で日本がポツダム宣言を受諾して 連合国に無条件降伏した日となっている。 しかし、日本はこの5日前の8月10日に御前会議でポツダム宣言を受諾することを 決めたのだ。受諾することを連合国側へ知らせるため、10日の午後8時過ぎに、 NHKの海外放送(ラジオ東京)が短波で日本降伏のニュースを日本語と英語で放送した。 短波受信機が普及しているアメリカやヨーロッパの人々は、8月10日に 日本の敗戦と戦争終結を知っていたのだ。短波受信機が普及していない、 持っていても短波の聴取を禁じられていた日本人は15日の正午に行われた 天皇の玉音放送でやっと知ることができたのだ。 お中元は、もともと中国の道教の暦法からきたことばで星祭りのひとつである。 1月15日が上元、7月15日が中元、10月15日が下元といい、 これら三元の日には、庭で火を焚く行事などが行われていた。 それが、日本に伝わり、お盆の風習と結びついて、先祖の霊に供えるとともに、 親や親戚などに食べ物を贈るのが習わしとなった。 それが今ではお世話になった上司などに贈るようになったのだ。 7月15日までに贈るのは、この歴史からきている。 明治政府は江戸開城後に幕府の高等教育機関だった昌平校、開成所、医学所を 接収して昌平学校、開成学校、医学校とした。昌平学校は儒学、国学を、 開成学校は洋楽を、医学校は医学を教育した。 政府は明治2年(1868)6月に、昌平学校を大学本校、開成、医学を分校にした。 これが日本の歴史上、最初の大学である。 しかし、明治3年になると大学本校は廃止され、古い学問の儒学、国学は中断された。 開成学校は大学南校、医学校は大学東校と改称された。 この両校をもとに明治10年(1877)4月に、法学部、理学部、文学部、医学部の 4学部からなる東京帝国大学が発足した。 盆踊りは、平安時代の歴史上の高僧、空也上人と時宗の開祖、一遍上人が普及させた という念仏踊りを由来としている。 盆に来る先祖の霊を迎え、また無縁仏の霊などを供養して、あの世に送り返す という主旨の踊りである。 盆に提灯などで灯火をともすのは先祖の霊が帰ってくる目印のためで、 灯籠流しや送り火は、これに乗って霊が迷わずあの世へ帰ってもらうためのものである。 戦国時代の末期の合戦は大規模で敵味方合わせて数万の軍勢が戦うという状況だった。 でも軍勢は武士よりも農民のほうが多かったのである。 歴史上、小田原の北条氏は、15歳から60歳までの男子のすべてを戦場に連れ出し、 徳川家康も小牧長久手の合戦に多くの農民を雑兵に使っている。 大道寺友山の江戸時代初期の歴史上の著書「落穂集」には「合戦において千人の死者が あれば武士はそのうちの百人か百五十人で残りの八百人から九百人以上が農民だった」 と記されている。 「君が代」には二番の歌詞があるのだ。現在、国歌として歌われているのは 一番の歌詞の前半部分だけで、正式な歌詞にはつづきがある。 一番は「君が代は ちよにやちよに さざれいしの 巌となりて こけのむすまで うごきなく 常盤かきはに かぎりもあらじ」 二番は「君が代は 千尋の底の さざれいしの 鵜のいる磯と あらはるるまで かぎりなき みよの栄を ほぎたてまつる」 一番の前半部分が国歌斉唱に歌われるようになったのは明治30年代のことである。 テレビや映画では赤穂浪士は、吉良邸に討ち入る直前に吉良邸近くの 本所のそば屋に一同に集合するが、これは間違いである。吉良邸近くの 3ヶ所の同士の家に分かれて集合したのだ。 1ヶ所は、本所林町の堀部弥兵衛宅でここには大石内蔵助や吉田忠左衛門 などが集まった。2ヶ所目は本所徳右衛門町の杉野十平次宅で、 3ヶ所目は本所相生町の前原伊助宅だった。 この3ヶ所で戦国の武士の出陣の儀式をまねて、勝栗、昆布を肴に 別盃をかわした。そばは食べなかった。 幕府の火事見回り役に扮した47士は、吉良邸の門前で合流し、ここで 表門組と裏門組に分かれて同時に討ち入りしたのだ。 |
||||||||||||||||||||||
|
||||||||||||||||||||||
| おすすめリンク集 | ||||||||||||||||||||||
| リンクについて | ||||||||||||||||||||||
| 雑学NOW!!〜TOP | ||||||||||||||||||||||